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ブログ:「 愛に生きる 」(著:島 至)


[No.101] たった一人の卒業式

記事投稿日時:2011年12月01日 00時00分


☆ ☆

今年もまた卒業式の季節がやってきました。
桜の便りと共に、この時期が来ると、必ず思い出す
“1通の手紙”があります。
きょうはある学生から私宛に届いた、
その卒業にまつわる手紙を紹介します。

☆ ☆

山村先生
きょうは記念すべき日なんですよね。私達大学の卒業式です。
ほんとうなら今頃、卒業式の会場で“仰げば尊し”を歌っているはずなのですが、私は今ひとり近くの白川公園で“下町の太陽”を口ずさみながら、昼食におにぎりを食べています。

毎日自分で作って、会社の昼休みにこの公園でひとり食べています。外食はいっさいしたことがありません。どうしても喉が乾いた時だけは、自販機の缶コーヒーを飲む程度です。きょうも仕事が5時に終わったら、また6時から12時まで別のところでアルバイトです。もうこんな生活が半年位続いています。

先生。きょうもいい天気ですよ。
3月とは言え、太陽がとても眩しくて・・・。やっぱりこの歌、歌っています。そう言えば山村先生は講義が始まる前の“おはよう”の挨拶がわりに、
そしてまた私達のクラスが何となく元気がない時に、「みんなどうしたの?こんなに天気がいいというのに・・・」と言いながら、よくこの歌、歌っていましたよね。先生が「みんな知っているでしょ。“下町の太陽”」と聞くと「知らないよ、そんな古い歌」と笑われながらも、先生が何度も歌うものだから、そのうちみんなも覚えてしまいましたね。

今から約2年前。
山村先生が初めて私達の大学へ着任された日の4月。
私もこの大学の新入生でした。
この大学に来て、山村先生にも会えたし、学校の雰囲気もよく、私はこの大学が気に入り、嬉しくて仕方がないと思っていた入学式の1週間後でした。友達もでき大はしゃぎで家に帰ったその晩、私の父の経営している会社が倒産したことを、父から知らされたのです。陶器を輸出している小さな会社でした。でも不債額が多かったため、家や土地も全部取り上げられることになりました。毎日家に帰ると、紙が貼られた家具や電化製品がひとつづつなくなっていくのです。ついに冷蔵庫もテーブルもなにもかもなくなってしまいました。母が勤めはじめました。でも私はそのまま大学に通っていたのです。弟もいました。高校生です。何としてでも高校だけは出さなくてはと、私は4時半に授業が終わるとすぐアルバイトに出かけました。
夜中の12時まで働くので、最初は夕食が込になっていたはずなのに、実際働いてみると夕食が出ないどころか、食べる時間さえないほどの忙しい仕事場でした。夜中の1時頃帰宅すると、何もなくなってしまった台所の床にサランラップに包んだ小さなおにぎりが2個、いつも置いてありました。
これが私の夕食です。毎晩、母が作って置いてくれるんです。その後、父は蒸発し、見つかった時自殺未遂をしました。私達家族は家を追い出され、小さなバラックのようなところに移り住むことになりました。この時点で大学をやめることを迫られていました。

でも私は絶対にやめませんでした。朝、学校に行く前の早朝2時間、学校が終わってからの6時間。土曜、日曜も返上し、私は夢中で働きながら、こうやって1年半を過ごしたのです。でも、とうとう大学をやめなければならない時が来ました。行政体の手が私のところまで伸びてきたのです。負債額も多く、また債権者が何人もいる場合は、その債務者の家族が大学へ行くことは許されないということでした。あと半年で卒業できたと言うのに・・・。ほんとうに悔しかったです。

私は今、朝9時から5時まで、夕方6時から12時まで、2ヶ所で働いています。昔、先生は、朝9時から5時まで、そして夕方5時半から朝8時半までの勤務を仮眠時間4時間という中で、2年間続けたことがあるって話してくれましたよね。それを思えばまだまだ楽なほうです。それに先生は、妹さんが死んでしまったそうだけど、私には弟もいるし・・・。先生、教えてくれましたよね。私達に。

「私は弱い人間です。あなたたちだけではありません。
だから一緒に、こんな弱い自分から今日こそ抜け出しましょう」 って。そして「みんな太陽のようになろうよ」 とも言いました。「知らず知らずのうちに相手の心を開かせるような、そんな太陽のような人になろうよね」って。先生。色んなことを教えてくれて、ありがとう。私はきょう、白川公園でたったひとりの卒業式をしています。卒業証書のない卒業式です。そして、私が卒業式に歌う歌は、“仰げば尊し”ではなく“下町の太陽”です。不思議なことに、このほうがずっと元気が出るんです。

先生。聞こえますか。私の歌・・・。私の声・・・・。
ありがとう。山村先生。
また明日から新しい気持ちで頑張ります。

オリエより

☆ ☆

オリエさんのひたむきに生きた日々が、一途に貫いた努力が、必ず実る日の来ることを祈り続けています。平成23年 桜の蕾、ふくらんで・・・・・・

山村 洋子
(致知出版より)

島 至(Shima Itaru)

株式会社エスピック 代表取締役社長&NBS代表幹事。
1950年2月10日、東京の神田に生まれる。1973年に島計算センター(現エスピック)に入社し営業兼SEとしてシステムの 開発等を担当。1988年代表取締役社長に就任。1990年に社名を「エスピック」に改め現在に至る。 趣味は旅行、テニス、他多数。『窓ガラスが鏡に変わる時』の著者。無類の旅好きで、これまでに訪れた国は50ヶ国を超える。旅を通して人生を学び、ビジネスの現場で改めて人の大切さを痛感し、 企業理念である「Good People Company」に辿り着く。以来、一貫して『人』を一番大事にする企業 『人』の成長と共に成長していく企業を目指している。